来世
来世 わたる
「天文学部?」
不意に彼女の口から出た言葉を反復してしまったのは、決して本意じゃない。けれど彼女、亜樹はそれに対してくすりと笑った。
「そう、あのね、ずっとやりたかったの。それで、今年入ってきた先生いるじゃない? その人が人数が揃ったら顧問やってくれるって! 私以外に二人連れてこいって言われたの」
「それで、帰宅部の私に白羽の矢が」
帰ったらお母さんに聞いてみる。そう言えば、やったぁと素直に亜樹は喜んでみせた。ほんと、こういうところは子どもみたい。
家に帰ると、早速今日あったことの話をした。三、四限が自習だったこと。亜樹と喋ったこと。天文学部に誘われたこと。お母さんは、黙って笑って頷くだけだった。好きなことをしなさい、と言う様が、今までの短気で私が服を脱ぎ散らかすとめちゃくちゃ怒るお母さんとはすごい違いだと思った。
次の日の夜、早速私は亜樹に連れ出されることになる。私が天文学部に参加するか迷っていると言ったから、亜樹のテンションは朝から妙なものだったのだ。夜、学校に来て。それで一緒に星を見よう。亜樹にも星の楽しさを教えてあげる。そうしたら、入る気になるから。
そんな会話を教師に聞かれていたらどうしようかと思ったけれど、廊下はガランとして一人二人生徒が歩いているだけだったから、なんの問題も無かった。
「夜の学校なんて、怖い」
「大丈夫よ、明かりをつければいいんだし」
手を力強く握られ、説得される。その真っ直ぐな瞳を見ていたら、なんだか断るのも申し訳なくなった。だって、きっと最後なのに。最後だから。
「いいよ」
小さく頷いた私を見て、彼女は「ありがとう、麻友!」と表情を綻ばせた。
その日の午後七時に校門に集合して、私服姿の亜樹と一緒に校舎に忍び込む。施錠は、やはり学校に来る先生が少なくなってきたからか管理が甘くなっていた。北校舎の裏口は閉まっていなかったのだ。危ないといえば危ないのだろうけど、生憎今のこの状況で学校に盗みを働こうなんて思う人はいないだろう。みんな、好きなことをして大切な人と共にいる。
階段を登って屋上につくと、普段は立ち入り禁止になっているその扉を亜樹は躊躇なく開いた。ぎし、という音と共に半ば外れるように開く扉。可憐な見かけによらず、乱暴だなあ。
「ほら見て、こと座よ。あっちはいて座」
彼女は子どもみたいにはしゃいでいた。初めて会ったときも、こんなだったかな。友だちを作れないでいた私に声をかけて、一緒にお昼ご飯を食べて。風邪で休んだ次の日にはノートを見せてくれて。そのうちお互いの家で勉強をするくらい仲良くなって。
「よくわかんない。プラネタリウムみたいに線を引いて教えてくれればいいのに」
私は、ぼんやりと呟いた。亜樹の白い指が指す上空を見上げても、ただ光る星がある程度の感想しか抱かない。やっぱり私は天文学部には向いていないのかもしれない。
「プラネタリウムには行ったことがあるの?」
「小さい時にね。お父さんと行ったの」
もう行かないだろうけど、と付け加えた。お父さんは最近家にいるようになって、私にどこか行きたいところがないか問う。でも今更遊びに行きたいとか、旅行に行きたいとか、そんなことは思っていなかったから毎日学校から帰っては静かに話をするだけだった。
「まあ、ここはプラネタリウムより星は少ないね」
「しょうがないよ。ここは東京だもの」
一瞬黙ったあと、彼女は不意に息を詰まらせた。何かを、こらえるような、吐き出す準備をするような。
「ねえ、麻友。いつか、もっと凄い星を見に行こう。空気が綺麗なところに」
「……私、まだ天文学部に入るって決めたわけじゃないんだけど」
「いいじゃない! ね、やろ」
なぜだかその時私には、亜樹が女神さまみたいに見えた。星空を背負って、満面の笑みを浮かべて。なんだかね、こんなことを言ったら怒られちゃいそうだけど、ホントにそのナントカ座よりキレイだって思った。
それがあともう少しで見れなくなってしまうことがちょっとだけ悲しい。
その日から、私と亜樹の部員探しが始まった。
けれど委員会にも部活にも入っていない私たちにそもそも人脈なんてものはそれほど無く、天文学部発足まであと一人の状態をずっと保っている。
「ううん、見つからないね」
「ポスター掲示もしてるのにね」
その頃になると学校に来ている人はほとんどいなかったから、ある意味仕方が無かったのかもしれない。教師すらほぼおらず、もはや高校にいるのは天文学部の顧問を引き受けてくれると言った先生の他に数二、三人だけだ。
今日も一限から六限まで、全ての授業は自習だった。制服を着てここまで来たものの、やることはない。ただ暑い廊下に出る気にもなれずに、クーラーでキンキンに冷えたこの教室でふたりきり喋っているだけだ。ほかの教室に知り合いはいないし、そもそも誰がまだ学校に来ているのかすらわからない。どうせみんな、大事な人と一緒に家にいるか、最後の旅行にでも行ってるんじゃないんだろうか。
窓から見えるグラウンドにも、人っ子ひとり見当たらない。
「ねえ、プール行ってみない?」
怒る教師がいないので行儀悪く机の上に腰掛けていた亜樹が言った。彼女はいつだって唐突だ。
「え、なんでよ」
「だって、暑いじゃん! プール、入るしかないよ!」
結局私はいつも通りなす術なく、校舎からつれだされてしまった。初めて制服のまま、校舎に隣接したプールへと足を踏み入れる。
水面はたぷたぷと揺れていてキレイなものだった。体育教師が全員学校に来なくなったのはつい三日前のことで、それまでプールはちゃんと水を入れ替えたり清掃されていたりしたから、今でもプールは藻も浮かずにキレイなままだった。プールサイドから水と同じ高さにある白い縁まで降りた亜樹が、私のことを手招きする。
「亜樹! スカートが濡れちゃうよ」
「いいじゃん、どうせ授業なんて、無いんだし!」
しゃがみこんだ彼女が、ぱしゃり、と水をかけてきた。
きらきらと光る飛沫が、まるで宝石みたいだった。
「ちょっと、何すんのよ!」
「麻友も遊ぼうよ!」
笑みが零れて、止まらなかった。それと同時に、自分の頬が水でないもので濡れていることに気がついた。ああ、これは。いつの間にか忘れていたものだ。最後に流したのは、いつのことだっけ。少なくとも世界の終焉が近いことを知ってからは、泣いたことなんて無かった気がする。
気がつけば、膝から下は水浸しだった。裸足のまま、じりじりと焼かれるプールサイドの上に立っていた。
「……亜樹」
彼女は、真っ直ぐな目で私を見つめた。黒目がちの、大きな目で。
「あき、私ね、あきのことが」
一度言葉にし始めてしまえばすんなり言えると思っていたが、案外それは難しいもので。
「まゆ、やめて。お願い」
ぎゅっと握りしめられた両手。まだ日焼けしていない亜樹の手が、私の手を包んでいた。額がくっついてしまいそうなほど近くに体温を感じた。
「私たちは、友達だよ」
その手はあくまで冷たくて、それで私はこの恋未満の想いが決して叶い届けられることはないと知った。
幾筋も幾筋も流れ落ちる涙は止まらなくて、このまま水分が出尽くして死んでしまえばいいのにと思った。
「そろそろ、この世界が終わるよ」
ふと、亜樹が呟いた。それを知っていたから、私は頷いた。世界の破滅の前に、伝えようと思っていたことなのだから。
「一緒に、いきたいところがあるの」
やけに落ち着いた声音だった。
いつかのように、校門の前に集合して。私の方が少し早くて、夕焼けの中十分ほど亜樹を待っていた。
お母さんとお父さんには、昨日の夜ちゃんと話をした。明日でお別れだと。今まで育ててくれてありがとうと。どっちにしろ明後日か明明後日にはそうなる運命だったけれど、最後の日くらい家族で過ごしたかった、とお母さんは言っていたけれど。ちゃんと説得して、最後には涙を流しながら二人は頷いてくれた。ありがとう、喧嘩もたくさんしたけれど、来世があるのならまたあなた達の子どもになりたい。
「麻友、ごめん遅くなって」
「ほんとだよ、予定の時間から五分遅刻」
「いいじゃん、五分くらい」
「そういうとこ、ほんと亜樹らしい」
ふふ、と私たちは苦笑しあった。そしてどちらともなく手を取り合って、歩き出す。目指すは、校舎の屋上だ。
もう、学校には誰もいなかった。あの顧問をやってくれると言った先生だって、家族との時間を大切にするという判断をしていた。もぬけの殻の職員室から鍵を持ち出し、屋上への扉を開ける。そして陽でオレンジに染まったその場所に並んで座って、夕焼けがゆっくりと沈んでいくのを見ていた。最後の太陽もいつもとまるで変わり映えしなくて、少し残念だと思った。
辺りがすっかり暗くなって、頭上に煌めきが溢れ始めて。ようやく亜樹が口を開く。
「きれいね、麻友」
「……うん」
今日、私は彼女と心中をする。
まだ彼女に恋をしていない私と、まだ私に恋をしていない彼女は、その先に進まないように心とともに死ぬのだ。この星が降る屋上で。
世界はやさしい。私たちを見届けて、それから死んでくれるというのだから。
「次はきっと、上手くいくよ」
亜樹が自分に言い聞かせるように呟いた。
先に立ち上がった彼女に手をすくわれ、そのまま歩き出す。屋上をぐるりと一周する間に、亜樹が教えてくれた星の名前を頑張って思い出していた。やっぱり自信が無い。私は天文学部には向いていない。亜樹は苦笑しながら、それでも二度は教えてくれなかった。ひどい。私が不貞腐れると、まあまあと宥めてくる。
「ね、いいこと考えた。生まれ変わったら、ここでまた会う約束をしよう。絶対に会いに来るから」
繋いだ手からそのまま小指と小指を絡められ、その触れた肌のやわらかさに浮かされそうだった。じっとりと濡れる汗が私たちのその距離を邪魔する。暑い。夏だから。
「その時に、この世界がまだあったらね」
「別の世界に行けばいいよ」
いつの間にか、屋上の端まできていた。ここからだと、星空が全面見える気がする。フェンスの鍵は、開いていた。
ゆらり、と体が揺れた。私が揺らしたのか、彼女か揺らしたのかわからない。それで、別によかった。視界が半回転して、一瞬見失いそうになった彼女の手をしっかり握り直す。
「またね」
足元の星がぐんぐんと遠のいていって、少しだけ名残惜しいと思った。
次に目を覚ました時、私は暗闇の中にいた。よくよく目を凝らすと周りには幾億個ものキラキラと光る粒が散らばっている。手を伸ばしてみて、それらが決して届かない物なのだとわかった。
そしてその手を見てみると、なんと私自身も光り輝いているのだった。私は体の内側から眩さを発して、目がくらんでしまいそうな明るさの白い光の塊だった。
それで、自分が星になったのだとわかった。
あとがーき
うわあ、このあとがーきっていうのも久しぶりだなあ、わたるです。なんかもう最近いろんなことで忙しくて、こんな短い話になっってしまいました。何か心に残ったら嬉しいです。
さて、これは文研のOP本のわけですが……あと、十分で第二次〆切が終わる。早く送らねば。
大学に進学して毎日、何かをしなければならないという気持ちに追われて生きています。なんだかんだ私にはこれが合いますね。現役の後輩たちには、今をしっかり生きてほしいです。それでは。
2017年9月 HotchPotch:OPテーマ誌「星」